ヒカルの碁 ゆめのふねのみなと1
  ゆめのふねのみなと1


「大丈夫だよ。安心して。この子は俺が守るから」
 ヒカルは優しく相手に微笑む。
「絶対、守り抜くよ。だから、安心してね・・・さようなら」
 意識のない相手が、微かに微笑んだようにヒカルには見えた。
「さあ、ママにさよならだよ。さい」



 久々に訪れた恋人が、赤ん坊を抱いていたのは緒方にはやはりショックだった。
「ねえ、緒方先生も抱いてみない?」
 もう、首は座ったから、大丈夫だよ。縦抱きでもね。
 ヒカルの言葉に、緒方は赤ん坊に手を伸ばした。抱き上げると羽の様に軽くて壊してしまいそうだ。
「名前は?ヒカル」
「さいだよ。色の光彩の彩だよ」
 良い名前でしょ?と、幸せそうに微笑む。緒方も素直に頷いた。
「ああ、良い名前だな。家の方も落ち着いたか?」
「ん、まあ、真名には家族はいなかったし、俺とは籍を入れなかったから・・・簡単に済ませた。真名は頑固だから・・・最後まで籍を入れなかった。無理矢理いれて真名に味の悪い思いをさせたくないしね」
 彩(さい)の面倒を見てくれるだけで十分とか言うんだぜ。
「俺が無理矢理欲しいって言ったのに」
 ヒカルは緒方の腕から彩(さい)を受け取る。
「良く眠ってるな」
「そうでもないよ。でも、もう3ヶ月だから、夜も良く寝てくれる。昼はかあさんが面倒を見てくれるし、大きくなるなんてあっと言う間だよ」
「もう、ここに泊めても平気なのか?」
 緒方の言葉に、ヒカルは苦笑する。
「待たせてごめんね。緒方先生・・・。本当にごめん。ありがとう」
 その言葉を、全てを知っている緒方は、複雑な思いで聞いた。
 初めてその話をされた時、緒方は無謀だと思った。
 確かに金になら不自由しない。だが、独身の男が子供を育てて行くなど、無理があるのではないだろうか?
 ヒカルと彩(さい)、親と子、だが、それには嘘が多大に含まれているのだ。
 だが、緒方はヒカルを止めなかった。
 理由なら色々とある。
 例えば、緒方とヒカルの間には、どう転んでも子供が出来ない事とか。この先、子供と3人で暮らしてみるのも悪くはないと思える事とか。
「ヒカル、彩(さい)に必要な物を買いに行こうか。何、ドラッグストアで聞けば何でも手に入るだろう」
「うん、解った」
 ヒカルはそう言うと、彩(さい)を前で抱く式のおんぶ紐に通し抱え上げる。
「さ、行こうよ。精次・・・パパかな?」
 一瞬、緒方も唖然とするが、にこやかに微笑む。
「それもいいな。女の子だから、お前に似ると美人になるぞ」
「もう、やだなあ。緒方先生たら」
 緒方はヒカルの手を取ると、ドアを開けた。



 ヒカルがその女性に会ったのは、アキラに連れられて行った先の店だった。
「あ、アキラさん、いらっしゃい」
「こんばんわ。今日は友人を連れて来たんだ。同じ、棋士仲間で進藤 ヒカルと言うんだ」
 ヒカルがこんばんわと挨拶をすると、
「あ、知ってますよ。進藤 ヒカル。天元タイトル保持者でしょ」
 すらすらと返ってきた言葉に、ヒカルは目を向いた。
「あ、あなた碁が打てるんだ」
「そうだよ。進藤。彼女の碁はなかなか旨いよ」
 アキラは自慢そうにヒカルに告げる。
「名前は?あなた」
「彩(あや)です。名刺をどうぞ」
 差し出された名刺に、ヒカルの目が釘付けになる。
「さ・・・い?」
「ええ、そうとも読めますね。さあ、どうぞ。何を飲みます?」
 アキラはボトルのキープがあると、それを持って来てくれるように注文を出した。
 女性が去った後、ヒカルは呟いた。
「綺麗な人だなあ。しかも囲碁が打てるのか・・・」

 ヒカルが彩(あや)と頻繁に会うようになったのは、それから暫くしてからだ。

「ヒカル君、恋人いるでしょ?」
 彩(あや)の言葉に、ヒカルは笑う。
「うん、いるよ。すごく素敵な人だよ。で、背が俺より高くて、かっこいいんだ」
 その褒め言葉に、彩(あや)は笑う。
「あは、やっぱり男の人なんだ」
「恋人が男だったら、嫌?彩(あや)さんは?」
 彩(あや)は静かに首を振る。
「好きな人と思いが通じていれば、同性でも幸せだよ」
「あはは。彩さんは良い人だね。ねえ、本当の名前を教えてよ。友達になりたいんだ」
 ヒカルが差し出した手を握るかわりに、彩(あや)は自分の本当の名前を口にした。



「精次さん、助けてよ」
 滅多に名前で呼ぶ事のない恋人からの電話を受け取ったのは、深夜を既に回っていた。
「・・・直ぐに、俺のマンションに来い!」
 数秒の間に、緒方は腹をくくったのだった。

「俺が育てるよ。俺はちゃんと働いているし、俺・・・欲しいんだ。彩(あや)の子供。ちゃんと育てて見せるから」
 額を床につけて拝むヒカルを、彩(あや)は困惑で見下ろす。緒方も、どうしたものかと思案中だ。
 だが、発言は緒方の方から出た。
「俺からも頼むよ。せっかくなんだ。君も・・・欲しいだろう?お金なら二人で負担するし、その子が産まれるまで病院の心当たりもある。君が体調を崩しても万全に産まれるように手配するよ。君は心配しなくていい。お金も君の身体もこの先の子供の事も」
 彩(あや)は顔を覆うと、身体を奮わせた。
「泣くと身体に障るよ。緒方先生が助けてくれるって・・・。俺、我が儘言ってごめんね」
「いいえ、ありがとう。ヒカル君、緒方さん。お願いします」
 緒方は彩(あや)の隣に座ると、その背を撫でた。
「部屋を引き払って、ここに住んでもいいが・・・どうする?」
「・・・そこまでは・・・出来ませんよ。私にも意地があります。・・・体調が思わしくなかったら・・・又、連絡させて下さい」
「俺、毎日連絡するから、絶対、嘘言っちゃ嫌だよ」
 ヒカルは彩(あや)の前に跪くと、その手を固く握った。



「あ、あのベビーウェアー可愛いなあ」
 ヒカルはピンクのウサギ柄の服を手に取ると、さっそくカゴへと入れる。
 ドラッグストアーで聞いた所、服は売ってないそうだ。親切な店員が、服の店を教えてくれた。
「彩(さい)は疲れてないかな?今日は凄く良く眠ってる」
「疲れたから寝てるんだ。お前がだっこしてるから安心してるんだぜ。赤ん坊はな、人混みとか移動すると疲れるんだ」
 緒方の物知りぶりにヒカルは唖然とした。
「何で、知ってるの?そんな事」
「ああ?お前、知らなかったか?俺には姪甥が合わせて8人もいるんだ。もっとも、一番上のヤツは俺と5つしか違わないけどな」
「知らなかったよ」
 初聞きだ。と、ヒカルは緒方に明るい顔を見せた。
「あ、そうだったかな?まあ、もう、ガキの年じゃないからなあ・・・一番下でももう、大学生だぜ。俺も年取るよな。・・・おい、これ彩(さい)に似合いそうだ」
 緒方が取ったのは、淡い黄色の小花の柄だった。


 すっかり必要品が揃った部屋戻ると、彩(さい)が起きて泣き出した。
「おう、起きたな!ヒカル、おむつくれ。お前はミルクを作れ」
 おむつを替える緒方など、お目にかかった人はいないだろう。だが、緒方が言うには、
「俺は、8人の甥と姪のおむつを替えた名人だ」
 だ、そうだ。
「ほれ、終わった。どうだ?彩(さい)、気持ちいいか?ヒカルママがミルクをくれるぞ」
「ママはよしてよ。一応は俺がパパなんだから・・・彩(さい)、ミルク」
 ヒカルは彩(さい)を受け取ると、その口にミルクを押し込んだ。
「ほら、あわてなくてもいいよ」
 んぐんぐとあっと言う間に飲み干してしまう。
「おお、すげえ、飲みっぷりだ。ほれ、背中叩いてやりな」
 げふっと盛大な音の後、床に寝かされた彩(さい)はおもちゃを渡されると、ご機嫌でいじり始めた。
「かあさんがね、時々は、ここに泊めないと、怖がるからって言ってるんだ。緒方先生の顔も覚えないしって」
「ありがたい気使いだ。すまんな」
 緒方はヒカルの肩を抱くと、その頬に唇を近づける。
 そっと吐息が重なる。
「何だか、こんなのも久々だね」
「じゃあ、彩(さい)の機嫌が良いうちに、他の事も済ませるかな?」
「・・・ええ?!でも・・・彩(さい)が・・・」
「直ぐに済ませる・・・俺もお前がいなくて限界なんだ」
「うん、解ったよ・・・でも、寝室でね・・・扉は開けておくからね」
 諾の返事もらった緒方はヒカルの腕を掴むと、寝室のドアを開けた。


 ピンポーン!!
 緒方とヒカルが寝室に消えてから、2時間後、ベルの音が鳴る。しつこく鳴る。
 緒方の腕で眠っていた彩(さい)が、起きてしまった。
「ち、誰だ!」
 インターフォンを覗くと、塔矢 アキラが立っている。
「うげ、もうきやがった。まったく」
 アキラが来たなら、ドアを開けないわけにはいかない。緒方はしぶしぶ玄関に立った。
「よう、アキラ君」
 彩(さい)を抱いたまま出迎えてくれる緒方に、アキラは唖然としながらも、酷く不機嫌な顔で赤ん坊を見下ろす。
「入って、いいですか?」
「ああ、ま、もてなしは出来ないがね。この通り、子持ちでね」
 緒方の軽口には、アキラは何も言わなかった。
 何時もは片づいている居間が雑然と散らかっている。全て、赤ん坊の持ち物だ。
「緒方さん、進藤は何処ですか?」
 緒方は黙って寝室を指さす。
「寝てる。たった今、無理をさせたからな。起さないでくれ」
 それが情事だと解らない程、アキラも子供ではない。
「緒方さんは、良くその子を抱けますね」
 呆れたアキラの声に、緒方は缶コーヒーをテーブルに置くと、
「すまんな。彩(さい)の機嫌が悪いから、こんな物で」
と、返事を返す。
「彩(さい)はヒカルの子だ。俺が抱いて何が悪い。ほら、可愛いぞ」
「彩(あや)は何処に行ったんです・・・?その子を残して」
 アキラの質問に、緒方は苦笑する。
「彩(あや)は俺達の周囲にはもういないよ。・・・君は、彩(あや)の本当の名前を知らないのかい?」
 彩(あや)と呼び掛けた事を緒方は指摘したのだ。
「知りません。あんな女の本名なんて。何だって、進藤はあんな女と・・・」
 アキラの握りしめた拳が震えている。
「・・・アキラ君、ヒカルも俺も彩(あや)の本名は知ってるんだよ。君はよっぽど信頼されてなかったのか・・・それとも・・・」
「それとも・・・?何です」
 きっと顔を上げたアキラの目尻にうっすらと浮かんだ物がある。
「これは、俺の口からは言えないよ。君も彩(さい)を抱いてみないか?」
 差し出された緒方の手には、泣きやんだ赤ん坊がいる。
「僕に抱けと言うのですか?」
「そうだよ」
 アキラは恐る恐る手を伸ばす。
 抱きしめた途端に、赤ん坊がばたばたと暴れだした。
「アキラ君、力が強いんだ。もっとゆっくり抱いてあげないと」
 緒方の言葉に従い、力を緩めると、彩(さい)はアキラの顔をぱちぱちと叩いた。
「うぅぅ」
「ほら、彩(さい)が喜んでいるよ」
 かちゃりと寝室のドアが開く音が響く。
「・・・アキラ・・・来てたの・・・」
 ヒカルはローブを纏っただけの姿だったので、焦って緒方を見つめる。
「そう、今、来たんだよ。シャワーを浴びて来るか?」
「・・・ん、良いかな?アキラ」
 ヒカルはアキラに同意を求めると、アキラが頷いた。
「ん、ありがとう。直ぐ出てくるから」
 ヒカルは着替えを掴むと、バスルームにと消えた。
「昼からお盛んですね」
 アキラの比喩に、緒方は苦笑する。
「何せ、3ヶ月と言うもの謹慎だったからな。俺が押し倒した。彩(さい)、おいで」
 緒方が赤ん坊を抱く姿を見て、
「慣れてますね」
「俺には8人も甥姪がいたからな。ヒカルにも言われた。そう言えば、誰にも話してなかったかな?ま、皆、君等より年上だからな」
「初めて知りました」
「アキラ、お待たせ」
 ヒカルは本当に速攻で、シャワーを済ませてきた。待たせたなどの時間ではない。
「ああ、いや・・・。・・・彩(あや)は何処なの?」
 言葉を飾らないのが、アキラの良い所だ。
「彩(あや)は、もういないよ。俺に彩(さい)をくれて出て行ったよ」
 その言葉で、アキラの血が一度に昇る。
「出て行っただって!?こんな赤ん坊を残して!?君に押しつけて!?」
 アキラの言葉に、ヒカルは冷静に返す。
「出て行ったのは確かだけど、押しつけられたわけじゃない。俺は彩(あや)に欲しいと無理を言ったんだ」
 緒方は彩(さい)を手近にあった毛布にくるむと、ベランダにと出てしまった。
 自分はこの件には部外者だ。聞いてはいけないのだ。
「なあ、彩(さい)・・・君はヒカルの娘だよ。そして、俺の娘だ。真っ直ぐに育ってくれ」
 そっと、彩(さい)の耳元に緒方は囁く。
 暫しして、一方的な口論は終演を見たようだ。緒方も部屋に入って来る。
「アキラ君、彩(さい)も寝たから、お茶でもいれようか?喉が渇かないか?」
 緒方は、彩(さい)を部屋の一角に寝かせる。
「結構です。・・・進藤、君は何でそんなに脳天気なんだ?!未婚の父のくせに」
「アキラ君、子育ては脳天気な方が旨く行くんだよ。未婚なのは仕方がないじゃないか。世間には結構離婚者も沢山いるんだ。シングルファーザーもいるよ」
「俺は恵まれているから、かあさんも緒方先生もいるし、収入もあるし。可愛い彩(さい)もいる。本当に恵まれているんだ。だから、心配しないで。あ、俺がお茶を入れるよ。何がいい?」
 ヒカルは嬉しそうにキッチンに立つと、棚からカップを取り出した。


「・・・さようなら。緒方さん」
 玄関に送ってくれたのは、来た時と同じ緒方だ。ヒカルは彩(さい)にミルクを飲ませているのだ。
「又、来ておくれよ。彩(さい)はいないかもしれないけど」
「そうですね。進藤と彩(さい)がいない時にお邪魔しましょう。・・・緒方さん・・・」
「ああ、ま、いいがね」
 アキラの鋭い視線が、ドアを睨みつける。そのドアは居間に通じるドアだ。
「あの子・・・進藤に似てますね」
 アキラの捨てぜりふに、緒方は苦笑する。
「まあ、いいか。どれ、ヒカルママを見に行くかな?俺もパパになったんだなあ」
 アキラと会話していた時とはまるで違う、脳天気な緒方の呟きだった。
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