ヒカルの碁 恋愛
 錯綜3


 アキラが緒方の元にやって来た日から、ヒカルは急に緒方に対する態度が変わった。
 今まで、緒方に言われるままに触れ合う仲だった。
 それが、急にヒカルから緒方を求めるようになったのだ。

「ん、あ、緒方先生、すき」
 幾度言っても足りないように、ヒカルは緒方に愛の言葉を告げる。
 緒方はそれを喜んで享受した。
 脳裏に、ちらりと後悔と言う色がちらついたが、ヒカルが求める赤く熱い色の前には、一瞬で染めあげられ四散してしまう。
 自分の下で、身もだえし、腕を伸ばし縋る恋人に、緒方は自身の楔を埋め込んだ。
 揺らぐ瞳に、安堵の色が見える。
「緒方先生、好きだよ。ねえ、緒方先生」
「俺もヒカルが好きだ。愛してる」
 閉じた目の端に泪が滲む。
 きつく寄せられた眉根と噛みしめた口。そこから、じょじょに快感の声が漏れる。
「ヒカル」
 緒方の声にびくりと震え、縋る腕に力が籠る。
 喉から音にならない嬌声を上げると、ヒカルは意識を失った。

「ヒカル、愛してる」
 意識のないヒカルに緒方はそうっと囁く。
「本当だ。嘘じゃない。お前が好きなんだ」
 例え、お前が俺を嫌いになっても、俺はお前を離さない。
 決して、離しはしない。


「最近の進藤をどう思う?」
 アイス珈琲を飲みながら、和谷が伊角を上目つかいで眺める。
 何となく、余計なお世話だと言われそうに思ったのだ。
 が、伊角は腕を組む姿勢を見せる。
「そう・・・だな」
 かなりの思案の後に、伊角は返事を和谷にした。
「何だか、不安定だな。対局は負けが込んでる事はないが・・・。最近、付き合いも悪いしな。あんなに良く笑う奴だったのに、殆ど笑わないし」
 和谷が意気込んで、テーブルから身を乗り出した。
「そうだろ?そう、思うだろ?」
「あいつ、変なんだよ。変!恋人が出来てから変なんだよ」
「そうだな」
「なあ、伊角さん、あいつの恋人って知ってる?最近、あいつ、思い詰めたように痩せてきてるし、ほっとけないよ」
 和谷は昔の手合いに出なかった頃のヒカルを思い出す。
 その姿は伊角も知っている。
 うつろで怯えていた。
 あの自分を制した瞳は何処に行ってしまったのかと、伊角は唖然としたものだ。
「そうだな。進藤の恋人か・・・誰なんだろうな」
「伊角さんも知らないんだ」
 ほんの少しだけだが、和谷は伊角に期待していたのだ。恋愛相談なら、自分より伊角に来るだろうと。
 森下門下の冴木もヒカルとは仲が良いが、恋愛相談相手には、ほんの少しだが年が離れている。
 白川にしてもそうだ。
「ああ、知らない。進藤は何か隠してるみたいだがな」
「隠してるって何を?」
「それが解れば、進藤が妙な理由も解るんじゃないか」
 伊角が和谷の顔を眺める。
 伊角の言葉に和谷はゆっくりと頷いた。
「調べよう」
「そうだな」


 何も、警察ではないのだ。
 だから、調べる範囲は限られている。そして、ヒカルの行動範囲は少なかった。
「棋院と碁会所と研究会。で、自分のマンション」
 ヒカルは交通の便や自由業の時間の曖昧さ故、ワンルームのマンションを借りていた。 そこはもっぱら、眠ったり勉強の為の書斎のようなものだ。
 よって、殆ど、荷物らしいものはない。着替えとベッドが置いてあるだけだ。
 和谷と伊角はその明かりがついてない部屋を見上げる。

「帰ってないんだな」
「そうらしいな」
「さて、どうする?」
「携帯に・・・連絡しても無駄だよな・・・」
「そうだな」
「尾行しかないか・・・」
「・・・それしかないかな」
「よし、進藤を徹底的に尾行だ」


 棋院でヒカルが倒れたのは、その翌々日だった。
 手合い後だが、ヒカルはふらりとゆっくりと倒れたのだ。倒れたと言うより、足が縺れたと言うのが正解だが。
「おい、大丈夫か?」
 近くの者が抱え起してくれる。
「あ、大丈夫です」
 ヒカルは重そうな身体を引きずると、休憩所の椅子にと崩れ掛けた。
 足や手が細かく震える。
 ばさりとヒカルの上に、かけられたものがある。
 薄茶のコートだ。
 それと同時に、すっと額に手が伸びた。
「熱はないな」
「・・・緒方先生・・・」
 ヒカルはその顔を見上げると、嬉しそうに笑みを刻む。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ちょっと、力が入らなくて・・・ごめんなさい」
 消耗する神経の集中の後だ。身体の方が持たなかったらしい。
「送る。少し、ここで待っていてくれ」
 ヒカルは頷くと目を閉じた。

 そのやり取りを和谷と伊角は見て、不信な空気を感じた。
「なあ、あれ、どう思う?」
「緒方先生か・・・。進藤は昔からあの人は知ってるらしいからな」
「何か知ってるかな?」
「そんな雰囲気だな。聞いてみるか?しかし・・・緒方先生だからなあ・・・」
 そう、接点が少ないのだ。和谷と伊角には。
 唯一の接点とも言えるのは、
 塔矢 アキラ の存在だ。
「塔矢に聞いてみるか?」
「・・・そうだな。だけど、伊角さん、素直に答えてくれるかな?」
「俺ががんばってみるよ」


「待たせたな。進藤」
 ヒカルがうっすらと目を開ける。
「・・・もう、帰るの?」
 すっと手を伸ばすと、緒方はその手を握る。
「ああ、帰るぞ。行こう」
「緒方先生、怒ってない?俺の事」
 倒れた事を言っているのだ。
「怒ってなんかないぞ。さあ、早く、帰ろう」


 伊角は塔矢 アキラを捕まえた。正確には連絡を取って会う約束をしたのだ。
 ファーストフード店の角で、伊角はアキラと向き合った。
『一緒に』と言う、和谷を断っての、二人だけだ。
 塔矢は終始ご機嫌で、いきなり呼び出された事など、まったく不愉快には見えなかった。
「突然、呼び出してすまない」
「いいえ。良いんですよ。しかし、伊角さんが僕に話しなんて、何ですか?」
 塔矢 アキラとジャンクフード。似合わないと思っていたが、なかなか似合う組み合わせだと、伊角は頭の隅で思う。
 目の前の青年は、ジャンクフードを頬張っている。
「すいません。お腹空いてまして。今日は手合いがあったんで、昼を食べてないんですよ」
 それにしても、これだけ食べるとは、塔矢 アキラはかなりの大食漢らしい。
 何せ、普通の二倍を食べているのだ。
「いや、どうぞ。食べながらで良いから」
「どうも」

「ところで、進藤に恋人が出来たらしいんだが、誰か知らないか?」
 随分とストレートだ。しかし、遠回しに言っても無理な気がする。
 のらりくらりとはぐらかされる可能性もある。
「ああ、緒方さんの事?」
 以外にもストレートな返事だ。
 こうもあっさり返事が来るとは思わなかったので、伊角は反対にショックだった。
「お、おがたせんせい?」
「そうですよ。本当にいちゃいちゃなんだから。目に痛いですよね」
「・・・何時から・・・?」
 喉がからからだ。
 伊角は、自分の前のコーラに手を伸ばした。
「何時からかな?あれは、僕が進藤とホテルに泊まった日だから、ひいふうみい、あ、先月の12日からですよ」
 ぐっ。
 伊角は慌てて自分の口を固く塞ぐ、コーラが気管から逆流したのだ。
 げほげほごほごほ。
 暫く、伊角はそれに苦しんだ。


「な、何だって?」
 伊角が声を押さえて、アキラを見る。
「何がです?」
「いや、進藤とホテルに行った・・・って?まさか・・・」
 アキラはずるずると行儀悪くアイス珈琲を啜る。
「あ、もうないや」
と、隣のカップを持ち上げる。こちらは新品だ。
 それを飲んで喉を潤してから、にこりと笑う。
「だって、あなた方、進藤の事、童貞だって馬鹿にしたじゃないですか。彼、可哀想でしたよ」
 まさかだ。あの塔矢からこんな返事が来るとは。
 つくづく、和谷を連れて来なくて良かったと思う。
「やったのか?」
「ええ、僕とね。でも、進藤が勘違いしちゃいましたよ。恋人になれるって。僕、今、恋人いるんで、断りましたけど」
 あっけらかんとした言葉に嘘はないのか?
 伊角は疑うのだが、アキラはそれを見越して、
「嘘じゃないですよ。でも、進藤がね、落ち込んで。でも、緒方さんの恋人になって元気に見えたんですけどね」
 にこりと麗しい笑顔。
 ファーストフードの店で、こんな猥談をして、それでもその笑顔か。
 伊角は決心した。
『これは、進藤が可哀想だ。絶対、暴いてやる』


 事の始終を聞かされた和谷は、暫く口が聞けなかった。
 曖昧で、あたり障りのない事を口にする伊角に、切れた和谷が怒鳴ったのだ。
「俺だって、進藤が心配なんだぜ!伊角さん、ずるいよ」
 それには、伊角も逆らえなかった。
 塔矢との会話を詳細にぶちまけたのだ。
「・・・それ、本当?伊角さん」
「本当だ。俺たちがからかったのが、最初の原因らしい」
 何もそれが原因ではないのだが、和谷にも伊角にも心に刺さる言葉だ。
 あの時がなければと言うのは、誰にもある。
「あ、進藤・・・が、以前言ったのはこの事だったのか」
 ふいに和谷が納得したと頷いた。
「ああ、そうか」
 でも、あの頃はそんなに変じゃなかった。
 何かあったんだな。
「どうしよう?」
「取り敢えず、進藤からも話を聞いてみるか。辛いだろうけどな」


 ヒカルが緒方に縋る。
 既に半ば盲てしまった瞳には、緒方しか映らない。
「ねえ、大好き。ねえ、緒方先生」
 行かないで。何処にも行かないで。大好きなんだから。
 ねえ、俺を置いて何処にも行かないで。
 もう、嫌なんだ。
 ヒカルの悲壮な思いの嬌声が部屋に響く。
 緒方はその快感に酔いつぶれた。
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