ヒカルの碁 恋愛
 錯綜1


 薄闇の中
 泣きながら許しを請うと、緒方の手が止まる。
「もう、根を上げたのか?」
 快楽に染めた顔が頷く。
 緒方はキスをすると、その顔を悦楽のゆがみへと変えた。


「ん?ああ、うん」
「じゃ、又な」
 微かな音でヒカルが目を覚ました。
「ん、何?」
「何でもない。ほら、眠れ」
 緒方がヒカルの頭を撫でる。
「うん、おやすみなさい・・・」
「おやすみ」
 ヒカルの寝顔をみながら、緒方は携帯を上着のポケットに仕舞う。
「何で、ヒカルが来る日は電話してくるんだか。嫌がらせか?」
 くすっと緒方は、苦く笑った。


 それは一ヶ月前の事だ。
 ヒカルは最初に肉体関係を持ったアキラに、翌日に振られた。それを慰めたのが緒方だった。
 偶然ではない。
 緒方がアキラに頼んだ事だ。緒方とアキラは共犯関係だ。
 緒方にしては珍しく、のめり込む純愛だった。
 どうしても欲しかったのだ。
 だが、恋愛に疎いヒカルを振り向かせるのは、難しい。
 緒方のそんな葛藤を知ったアキラが、囁いた一言は。
「進藤を失恋させましょう」
「失恋?誰に?」
 アキラがにこりと笑う。
「そうですね。僕にでもしておきますか」
 じゃあ、失恋の痛手の進藤を宜しく。
「ほう、君に失恋?進藤も可哀想だな」
「その前に、とっても良い夢を見せてあげますよ。ええ、とっても良い夢をね」


 アキラがヒカルに見せてくれた夢は一夜でとけてしまった。


「ヒカル、おはよう」
 朝、緒方は必ず、ヒカルを起して、食事をさせてくれる。ヒカルは朝日の中で、それを申し訳なく思い、同時に幸せにも思う。
 湯気の立つ、カフェオレを渡してくれる緒方は、とても優しい。
 幸せな気分で飲む、カフェオレはヒカルを心から溶かしてくれる。
 そう、あの失恋の痛手など、もう残ってはいなかった。
「今度、何処かに行こう。そうだな、何処が良い?」
「何処でも。二人なら何処でも良い」
 俺はこの人が好きなんだなあ・・・。
 ヒカルはしみじみと実感する。

 昨夜の熱い夜、とろける程の悦楽を与えてくれる緒方に、ヒカルは酔った。
 緒方は極上の酒のようにヒカルの喉から注がれ、隅々を満たす。
 指先から足先からそれは火を灯し、ヒカルの中の全てを焼き尽くす。
 燃え尽きる瞬間の恍惚とした高み。
 それは、ヒカルを支配する緒方が与えてくれる物だ。
 ヒカルは緒方と言う、極上の酒に酔っている。


「ちくしょう」
 目の前で、不安定な気持ちをぶつける和谷をヒカルはぼんやりと眺める。
「だから、何で、それで、別れる事になるってんだよ」
 和谷は失恋したのだ。
「まあまあ、気を落とすな。新しい恋もあるだろ?」
 至極当然の慰めに、和谷は又、がくりと肩を落とす。
「あ〜。そんな事あるかなあ?都合良く、何処でも転がってなんかいないぜ。でも、傷が浅い内に別れは訪れたなあ・・・」
「和谷はどれだけ付き合ってたの?」
 珍しくヒカルがこの手の話題に突っ込みを入れた。
「あ?1ヶ月、に、ならないか。3週くらい」
「じゃあ、じゃあ、・・・あれ、した?」
 和谷と伊角は顔を見合わせる。
「あれって?キスの事じゃないよな」
 ヒカルは顔を赤らめて、頷く。
「・・・まあな」
「それって、付き合ってどれくらいでしたんだ?」
 和谷がにまにまと笑う。
 数週間前、ヒカルが童貞である事は本人が告白した。ただし、酒で口が滑っただけだが。
 子供っぽく奥手に見えたヒカルだが、本当に奥手でもあったのだ。
「気になる年頃だもんな。良し、和谷にいちゃんが特別に教えてやる」
 和谷が指を3本立てる。
「三時間?」
「あほ、3日後だ。俺はそこまで無遠慮じゃないぞ!」
 ヒカルの言葉に慌てたのは、和谷の方だ。
「へえ・・・そうなんだ」
 ふうんと、そのまま、ヒカルは考え込んでしまう。
「ま、お前にはまだまだ早いぜ」
 偉そうな言葉だが、和谷とヒカルは一つしか違わない。
「ねえ、失恋して、直ぐ、恋人が出来る事ってある?」
「それは、あるだろうな」
 答えたのは伊角の方だ。
「恋と言うのは縁だからな。それとも、その新しい恋人がずっとその人を好きだったかもしれないけどな」
 ヒカルの顔が瞬時に真っ赤に染まる。
 それを見て、和谷と伊角はまさか?と、顔を見合わせ、
「それ、進藤の話なのか?」
 もう、ヒカルは涙を流さんばかりの顔だ。
「誰だ?お前の恋人って?」
 和谷も自分の失恋なんて飛んでしまった。
 ヒカルに恋人が出来たって?
「あ、違うよ。違う。知り合いの話」
 否定するがもろばれだ。
「そうか、そうか。お前にもついに恋人がなあ。どれ、聞かせろ。その子の事」
 和谷が逃げだそうとするヒカルの服をむんずと掴んだ。
 途端に、思考が停止する。
 襟首を掴んだ為に伸びた服。その首筋から背中にかけて、一面に赤い鬱血の後が覗く。
「・・・・・・」
 重い沈黙。
「・・・随分と情熱的な子なんだな・・・」
 不安定な空間に、伊角がようよう声を絞り出した。
「あ、うん、そう。俺、帰る!」
 ばたばたとヒカルは自分の荷物をかき込むと、和谷の部屋のドアを閉めた。

「なあ、あれ・・・どう、思う?」
「・・・そうだなあ・・・年上の女性?・・・ん・・・」
「何か、心配だよ。俺」
「俺もだよ。和谷。しかし、誰だろう?」


 和谷の部屋を飛び出し、ヒカルは赤い顔を外気で冷やす。
「ああ、びっくりした」
 背中についている痕など自分に解るわけないが、前なら見える。
 緒方が情熱的に口づけた痕は、見える範囲にも沢山残されている。
 それが先程の羞恥で、熱を持って疼いた。
 ざわりと駆け上がる快感に、ヒカルの足は緒方の元へと向かった。
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